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被災地から  9  津波から逃れる手段は?

河北新聞の「宮城沿岸避難者のアンケート」に、

「どのような手段で津波から逃げましたか」という質問がありましたが、

それによると車、徒歩、駆け足、バイクや自転車、家族や

住民の介助」の順となっていました。

実際、私も4月の夜中の大余震の時、避難所になっている学校まで、

700㍍ぐらいしかありませんでしたが、その距離でさえ「車で」と

一瞬思ったことは確かです。

結局、門を開けたり、車を出したりしているうちに遅くなるのでは

と思いなおし、走って逃げました。

その時、大通りは大渋滞で、私は懐中電灯を使わなくても、ずっと

続いている車のヘッドライトの明りだけで、歩道を通って避難所まで

行くことができました。

一般的には、道路は津波の通り道となりやすく、渋滞した場合は、

津波から逃げられなくなるのだそうです。

私の知り合いでも、「途中で車を降りて逃げた」という方が

何人も助かっています。

津波から逃げる時は、車は使わない

今回の地震の教訓です。

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被災地から  8  宮城の被災車両

2011_0518_100118cimg1605 宮城県の被災車両が146000台にもなっていると

河北新聞に報じられていました。

これは県内の登録台数の1割を占める数だそうです。

すごい数の車が被災したことにびっくりです。

長い間使った車は、愛着があり、家族のような感じさえするものです。

その車を突然被災して手放さなければならなくなった方たちの気持ちを

思うと、察して余りあります。

もちろん、不便さも人一倍だと思います。

今は、被災車両があちこちの空き地に、所狭しと山積みされていますが、

その光景を見るたび、修理して走れるようにな.る車もあるのではと

思ってしまいます。でも、海水につかった車は相当むずかしいそうです。

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被災地から 7  被災した教え子を訪ねて 

震災から2カ月余、先日、お父さんが津波で亡くなられ、家も

流失した教え子(40歳)の家族の居所(仮設住宅)がやっと分かったので、

訪ねてきました。

私が「特別支援学校」に勤務していた時の教え子です。

教え子は、震災以来、福祉作業所の方に泊まらせていただいていると知り、

その施設に行って、教え子ともしばらくぶりで会ってきました。

彼は、お父さんが亡くなったことは知りませんが、言葉を話せない彼は、

なんとなくそれを察しているようで、私に何度も何度も天国を

指差しして見せ、お父さんの死を受け止めているように思いました。

涙する私の顔を見て、指で×印を作り、「泣かないで」と言っているようでした。

お母さんを先に避難させ、ちょっと遅れて避難しようとしたお父さんに

突然第2波の大波が襲いかかったのだそうです。

お父さんはどんなに無念だったことでしょう。

なんとか助かってほしかったです。教え子のためにも、、、。

残念で残念でなりません。

彼は、もうすぐ大好きなお母さんと妹さんが居る仮設住宅から

施設に通うそうですが、お父さんが居ないこと、これまで住んでいた

広い家でないこと」、、、、現実を知った時の彼の気持ちを思うと

胸が痛みます。

これからも、彼を励ましに、時々彼の家を訪問したいと思っています。

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 被災地から  6  日頃の地震に対する意識

4月11日の河北新報に「宮城沿岸避難者アンケートの結果]

載っていました。それによると

「日頃から地震対策を意識していましたか。」という質問に

   強く意識していた   20.8㌫

   どちらかというと強く意識していた  46.4㌫

   どちらかというと意識していた    22.4㌫   

   ほとんど意識していなかった   10.2㌫

   その他    0.3㌫

意識していた人が、3分の2以上を占めていたそうです。

そして、耐震補強や家具の転倒防止、貴重品や食料、

水などの持ちだし準備をしている人が多かったそうです。

特に宮城県は、2008年や2003年にも震度6や7の地震を

経験しているので意識している人が多いのだと思います。

「あとは当分来ないだろう」なんて、気を緩めずに地震のことを常に

意識して生活したいと思っています。

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被災地から  5    停電時の冷凍庫

私は冷蔵庫の冷蔵室のほかに、冷凍庫があり、季節季節の食材や

肉類をかなり冷凍していたので、今回はそれらを調理して避難所に

いる方に、何日か届けることができました。

避難所は初めのころは、食事もままらないとのことだったので、

お役にたてて、とてもうれしく思いました。

冷凍庫の食材は、停電になっても、凍った食材どおしが氷の役目となったり、

ペットボトル氷があったりで、一週間程は溶けませんでした。

2011_0318_080451cimg1473 数日後、外に置いた雨水が、寒さで連日氷が

張ったので、それを割って冷凍庫に入れ、

電気がつくまで食材を痛めずに使うことができました。

(3月だというのに、写真のように厚い氷がはりました。)

暑くなっても、大きめの氷(ペットボトル)を入れておくと、

「停電時でも冷凍庫なら食材を長持ちさせることができるのでは」と思います。

これからも常にペットボトルで氷を作っておき、非常時に備えておきたいと

思います。

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被災地から 4 携帯の電話番号

今回の震災で、停電や乾電池の不足で携帯電話の充電

できないために、相手の携帯の番号が分からなくて、安否確認や

避難先を調べることができず、本当に大変でした。

避難所で特設の公衆電話も設置されていたのですが、電話番号が

わからなくて使用することができませんでした。

日頃、「携帯を持っていれば安心」と思っていましたが、今回のようになれば、

まったくのお手上げです。

「電話番号を控えた手帳」も非常持ち出しに入れて置くこと、

今回の震災で強く思わされたことの一つです。

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被災地から  3 いつも「バスタブには水を」 !

いつもはお風呂に入る前、お風呂掃除するのですが、震災の日は、朝に

風呂掃除をして、、バスタブには、水を入れておきませんでした。

バスタブを乾燥させておこう思って、、、。

それが私の大誤算!! 地震で断水!!!

「水洗トイレ用の水がない!!  」大失敗でした。

でも、前日から降った雪が、,屋根から溶けて流れていることに気付いた

2011_0317_142811cimg1471 息子の発案で、屋根の雨樋の一か所をはずし、

ありったけの容器を出して、雪溶け水を受けて

溜めました。

その後、運よく雨も降り、今回は最後までトイレの水には

不自由しませんでしたが、

      いつ地震があって、水がストップするかわからないので、

      バスタブには、いつも水を張っておくこと、 

肝に銘じました。

「お風呂のスイッチを押せば、設定した温度の湯が流れ、一定の湯量で

止まる」当たり前のことでした。

これからは、お風呂を早く掃除した時は、水を張っておき、「追いだき」を

使ってお風呂を沸かすことにします。

また、断水の時、雨水も溜めればいろいろ使えるので、雨樋から容器に

うまく溜める方法を考えてみることにしました。

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被災地から  2  「震災時、お助けグッズ」.

震災の日から2週間ほど、電気と水がストップし、電気と水のありがたさ

いやというほど感じさせられました。

水は、ポリタンクに2個汲み置きしていたとはいえ、洗う水を最少限度に

使用しないと、炊事ができなくなるのではと心配でした。

そこで、皿や茶碗に「ラップ」をし、盛り付けしたり、かき混ぜたり

丸めたりする時2011_0317_080213cimg1466は、「100円ショップの

ビニール手袋」を使いました。

このビニール手袋、薄くてよく手になじみ、

使い勝手がいいんです。

それに、なんといっても一箱に80枚も入っているので、使うたびに捨てても

惜しくないんです。(洗う水がもったいないので。)

経済的で、衛生的なこの100円ショップのビニール手袋とサランラップ、

今回の震災で大活躍しました。

手を洗う水がないとき、トイレにいくときだって使えます。

買い置きしておきたい震災用グッズです。

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被災地から 1  大地震の前兆 ?

あの大地震の2日前の3月9日宮城県で陸沖を震源とする震度5弱を

観測する地震がありました。

それから何回も続く余震に「強い地震がくるのでは」と思った私は、3月10日

そのことをブログに書き、下書きフォルダに入れておきました。

その日はいつもブログ休刊日にしている木曜日だったので、3月11日分として

書いておきました。

震災のあった日、私は前から予定していたパークゴルフに朝8時30分、

地震が来るなんて想像だにせず、心躍らせて出かけました。

午後も友達と2周ほどまわって2時30分ごろゴルフ場を後にし、車を

運転して帰る途中、人家が密集している電柱のたくさんある通りに

差し掛かった瞬間でした。左輪が道路の穴に落ちたのではと思うほどの

音と傾きに何が起きたのか、とっさに判断できませんでした。

そして、土中に深く埋まっているはずの電柱が、あんなに揺れるとは、、、。

私は、一瞬、「この電柱が倒れてきて死ぬかも」と思ったほどです。

そこは、海からか10㌔以上離れている農村地帯です。

カーラジオは「大津波がきます。直ちに避難してください。」と絶叫に近い

声でアナウンスしていました。

私は、海から3㌔ほど離れている自宅に向かって車を走らせましたが、

近所では地震の強さだけが話題になり、みんな「大津波がきてもここまでは

来ないだろう」と思っていたようです。

でも、あとで津波は自宅の500㍍手前まで迫っていたと聞き、ぞっとしました。

「1978年の宮城県沖地震」、「2003年の宮城県北部地震」、「2008年の岩手、

宮城内陸地震」の時も。その数日前から地震が何回もきてから、 

「ドカン」と強い本震が来たので、「今回も危ないのではと」思っったことは

確かです。

「備えあれば憂いなし」 弱い地震でも地震が続いた時は、「本震の前兆」と

心得て、それなりの覚悟をしておいたほうがよいと思います。

そして、怖い怖い津波の襲来があることも、、、。

≪3月11日にアップする予定だった私のブログ≫  3・10に書く

一昨日、私の住んている宮城県で、三陸沖を震源とする震度5弱を

観測する地震がありました。それから震度1~4の余震がずっと続いて

います。

「天災は忘れたころにやってくる」

まさにこのとおりです。

2年前、震度6強の岩手県南部内陸地震で宮城県県北も大変な

被害に遭いました。

そして、2003年には、震度6強と弱を1日に3回も経験した宮城県

北部地震、思い出すだけで、ぞっとしますが、時間とともに

忘れかけていることも確かです。

私は、この日、地震の時のために物置に準備しておいた「リュックの必需品の

点検とポリタンク2個の水」の交換をしておきました。

今後30年以内に想定される「宮城県沖地震」とは、今回の地震は関係

ないとのことですが、「これが契機となって起こりうるので」はと心配でもあります。

心配が的中しませんように、、、。

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東日本大震災の被災地「東松島市」に住んで  

皆さん、お久しぶりです。

やっとブログを書く心境になりました。

「東日本大震災」が起きるまでは、週6回も書いていたブログでしたが、

あまりの大、大ショックに「書く」という意欲が全く失せてしまいました。

その間、ご心配くださった方からコメントやメールをいただき、本当に

ありがとうございました。

皆さんの温かさが胸に沁み、おかげさまで頑張る勇気も湧いてきました。

私は、今回の東日本大震災の被災地、「東松島市」に住んでいます。

新聞によると、東松島市」は、住宅地の65㌫が浸水した」ということでしたが、

私の家は、500㍍先の線路を境にして浸水は免れました。

私の住んでいるところから海岸までは、直線3㌔程の距離ですが、

その間には、今回水没した航空自衛隊の松島基地もあります。

わたしの住んでいる所は、まさかすぐ近くまで、津波がくるなんて

およそ考えられない場所でした。

「東松島市」だけでなく、、隣まちの「石巻市や女川町」でも私の友人、

知人、教え子、元同僚の多くの方々が多く被災されました。

家族や家を津波に流されてしまった方々の心境を思うと、

胸が張り裂ける思いです。

また、津波から命からがら逃げ、2週間程、避難所生活をしていた

元同僚だった先輩の方が、突然「くも膜下出血」で亡くなられました。

毎週のように電話で近況を語り合ったり、ランチを食べたりしていた

ので、私は二重三重の悲しみに打ちひしがれています。

全国から多くの支援をいただき、おかげさまで、今、街は少しずつ少しずつ

復興に向けて、進みつつあります。

ご支援して下さった全国の皆様、本当にありがとうございました。

私も、被害がなかった分、私なりに皆さんの役に立つよう頑張りたいと

思っています。

これから、大震災を経験していろいろ考えさせられたことをブログに

綴っていきたいと思います。

震災以来、錆びついた私の脳を活性化するためにも、、、。

そして、皆さんにも何か参考にしていただけたら幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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